社長ブログ

川上博重

先日、岡山にあるマイクロ波電源と導波管を自分の車で東工大YVPに運んだ帰り道、新横浜線で今井・川上のIC発見。

IC今井、IC川上 

川上博重は、8年前他界した僕の相棒のことだ。当時44歳、小脳出血による突然の死だった。そんなに早死にするようにはとても見えない頑丈で、エネルギッシュな男だった。高校を卒業した時、右翼団体と暴力団の両方から勧誘が来たと言っていたが、それも頷ける豪快で、型破りなところがあった。

僕は彼を自分の兄弟のように愛し、彼もそうだったと思う。ある日若気の至りで、虎ノ門の人通りの多い歩道で、大声でなじりあったことがある。ある著名な団体の理事長にお目にかかった直後のことで、僕は彼の理事長への態度が礼節をわきまえぬものであったと言い、彼は理事長のものの考え方がなっていないと言っていた。しかし、そのことは共通のブレることのないMISSIONに傾ける思いと信頼に裏打ちされて、亀裂が入るどころか寧ろお互いの絆を強める機会になった。

電車がPASMOSuicaに切り替わる少し前、渋谷駅で切符を買おうと列に並んでいた時、川上は隣の若い女性の切符のお釣りを奪って逃げようとする男を咄嗟に押さえつけた。「お前、今何した?お金を(その女性に)返してやれ」と怒鳴る川上の迫力に圧倒されて、男は硬直して釣り銭を握りしめた手を開こうとしない。その手を無理やりこじ開けて、「こんなことしたらあかんぞ(関西出身)」と一喝し、男を放免してやった。

本題はここから、切符を買ってプラットホームに立った時、川上はその男のことを考えていた。そして、次のように思った。「数百円もないほど困窮して、ひもじい思いをしていたのか」そのことに居ても立っても居られなくなった川上は、すぐに電車に乗るのをやめて、男に1000円渡そうと、彼を探して広い渋谷駅の構内を探し回ったのであった。

今も、彼を恋しく思う。STRAWBをスタートして16年、何度も資金難で立ち往生したが、事業を辞めようと思ったことはない。しかし、川上に死なれた時には、もう続けられないと思った。一緒に、表彰台に立つ日を夢見ていたからだ。

株式公開を実現するその日、五穀豊穣を祈念して鐘を鳴らす時、しっかりと彼の遺影を抱いて、そこに立ちたい。